いつだって確かな何かを望んでいた

わたしが慧ぴょんのことを信じたり安心できるひとだと思う理由の一つは、彼が言葉を正しく使うひとだからだなあと思う。

 

そう。わたしは言葉を正しく使えるひとがすき。

ここでいう「正しく」というのは「敬語が上手に使える」「上品な日本語を話す」という類のものではない。

 

そうだなあ、例えばカフェでドリンクを頼むときに「コーヒーでいい」と頼むか「コーヒーがいい」と頼むか、そういう些細なこと。だけど、わたしにはとても大切なこと。

きっと口にするときに、深い意図も悪気もないんだろうなあと思うんだけど、でもだからこそちゃんと「コーヒーがいい」って言えるひとがすき。「でいい」っていうならもっとよりよい、あなたが望む最善の選択を教えてくれればいいのにっていつも思う。その中にはあなたの望む最善がなかったのかなあごめんね、って思う。でも、だから選択肢の中から最善を選んで「これがいい」って言えるひと、もしくは「もっと行きたいお店見つけちゃったから、いまから行こうよ」って新しい道を開拓できるひとがすき。

って、例え話が長くなっちゃったね。

 

上に書いたのはあくまで例え話だから、実際にそういう状況があったわけじゃないよ。でも、想像したときに慧ぴょんなら「がいい」って言うんだろうなあって思うし、そう思わせてくれることがとてもしあわせでくすぐったいような気持ちになる。

慧ぴょんは自分の意思の有無をきちんと正しく言葉にできるひとだからすき。慧ぴょんがどう感じてどのように考えて言葉に、そして行動に表して世界に伝えようとしているのか、まっすぐに伝えてくれるからすき。他人任せにするときもそういう意図があってのことだし、自分の意思で動いた物事を他人に押し付けたり、他人事のように言葉にしないからすき。

ここ最近事務所に猛烈に推されて、でもそれに潰されることなくあっというまに売れて、いままでに比べればずいぶん遠くのひとになってしまったはずなのに、それでも慧ぴょんのこと同じようにずっと近くに感じることができる理由のひとつなのかなと思う。

慧ぴょんのくれる言葉は、すとんとココロに落ち着いてくれるからすき。どこかに引っかかったりちくっと刺したりざわざわとさざめきだたせることなんてないかもしれない。まあもっとも、昔から隠し事は下手だなあって思うことは多々あるけどね。

 

ああ、もっと的確な言葉で揺るがずにだいすきを表現できたらいいのに。

このすきって気持ちも遠回りの例え話ならいくらでもできるのに、どうしたらきちんと伝えられるのかずっと分からないでいる。

 

わたしは言葉に敏感でいたい。鈍感でいたくない。

その分、言葉を優しく正しく使えるひとといることを心地良いと感じるのだと思う。

元気がないとき落ち込んだとき、慧ぴょんの言葉ひとつでむくむくと前向きな気持ちがわいてくるから、慧ぴょんはすごいなあと思う。そして言葉そのものも。